あけましておめでとうございます。
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。宜しくなくても勝手に書いていきます。
毎年、年始に訪れる「今年こそ有意義な1年にしてやるぜ!」
という殊勝な気分の赴くままに綴ります。お暇な方だけお読みなすって下さい。
自分で洋服を作っているとよく思う事があります。
「自分の作る服はどこかのブランドの劣化コピーなんじゃないか?」とか
「そんな物作って何になる?」とか。
学生の時分こそ「模倣は罪ではない」という意識の元、様々なブランドからその時々で「良い、欲しい」と思ったデザイン、ディティールを拝借しごった煮にした服を楽しく作っていました。
が、近頃はそういった気持ちだけではエンジンが掛からないというか・・・。
何が言いたいかというと
「デザイン、ディティール等の表面的部分を取り繕っているだけで、洋服作りに対する信念や思想が欠如している」
という気がするのです。要するに独りよがりというか。
例えば「一着だけの服」なら、それなりの物を作れるとは思っています。
しかしそれが「作品群」となると途端に作り手の色が薄れ、好みの表層を余所から借りてきてそれっぽく取り繕い、自己満足しているようになってしまう。
そうして作ってきた洋服達を見るとどこか薄っぺらいというか「中身の無さ」が余計際立ってしまうと思うのです。
てなことをグルグル考えていたところ、ファッションジャーナリストとして長年コレクションを観られてきた平川武治さんという方を知り。
Takeji Hirakawa
1945年大阪生まれ。72年渡仏。73年からロンドン在住。帰国後、建築史を学んだ後、上京し、アパレルに就職。現在、フリーランスでモードの評論をパリと東京で行う。
この方のブログやインタビュー記事等で、ズバリな事が沢山書かれていました。
「デザインは遊びではない。”ファッションデザイナー・ゴッコ”で在ってはならない。」
自分のブランドとは、持ち得た世界観を、文化度と美意識と倫理観そして、ヒューマニズムによって、それぞれの世界で確立展開させる責任所在のマーキングでしかない。
決して、”自己満足”の証しだけではない。
なぜならば、デザインとはやはり一つの”コミュニケーション・ツール”である。
自分のブランドで、どのような世界へコミットできるか?
自分のブランドで、自立自活出来るか?
そして、自分のブランドで何が社会へ還元出来るか?
刺さる言葉です。
実社会へ自立したくない、頭デッカチな未熟児デザイナーたちのショーイングだけのデザイナー観や「壁紙デザイナー」の服作りは“ダサく”、「枯れ木の山の賑わい」。
彼らたちのレベルでは現実の日本のファッション産業の振興と発展と彼らたち自身の“継続”にどれだけパワーフルなミッションと「高き”志し”」を持っているのだろうか?
まるで見透かされたようです。
「頭デッカチな未熟児デザイナー」辛辣ですが的を射ていると思います。
上記リンクは引用文とは別の記事ですが、氏の考えがインタビュー形式で分かり易く掲載されています。(もっと濃厚な内容は平川武治 ブログで検索すると出ます)
他にも各界の著名人の(服飾関係の方も)インタビューが載っています。
バナーに「考える高校生のためのサイト」とありちょっと恥ずかしくなりました。
他にも金言が沢山ありましたが、色々と読んで得た「悩み」に対する答えは即ち
「教養が足りん!!」です。((T_T)と(^p^)が混ざった感情)
確かに政治宗教文化、何でも良いですが思想や信念、教養、主義主張の無い人が創作によって他人の心を動かすのはとても難しいように思えます。
A(思想・信念・主義)がありB(創作物)によってC(主張・発信)する、D(教養)はAに近いがこれがあればより説得力が出る、みたいな。
自分に足りていない部分は主にAとDではないだろうかと。
そこが不十分だから結果BもCもアカン、みたいな。
「洋服の事ばかり学んでいても良い服は作れない」と言われた事があるような無いような。薄々感じていた事にいよいよ誤魔化しが効かなくなりました。
こうして書いていて自分でも「こんな当たり前な事を」と思えてきて凹みます。
長々と書きましたが、まぁ私はいわゆる意識高い”系”。理想と現実は違います。
なので現実的な目標としては「継続」です。
追記:フードブルゾンの仮縫い(その2)は週末更新予定です。
追記までどうでもいい話ですが、年末年始はテレビばかり観ていました。
ガキ使、ネタ番組、ジブリ&新海誠作品、モヤさま、格付け、スポーツ王etc.
普段テレビあんまり観ない派ですがどれも面白かったです。
以下小ネタ。以前302円で購入した「鬼のように切れる糸切りバサミ」くん。
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